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式辞・法話

3年生上山研修_真宗大谷派参務挨拶

真宗大谷派参務挨拶

本日はようこそ真宗本廟にご参拝くださいました。
季節は春の穏やかな日となりましたが、この御影堂の中は、少し寒いくらいかもしれませんね。

3年生でいらっしゃるみなさんのなかで、この東本願寺の御影堂に初めてお越しの方はどれほどおいでですか?たくさんいらっしゃいますね。
名古屋の東別院は学校からも近いと思います。あちらの建物も大きいですが、こちらも大きな建物であります。
この研修を通じて、この東本願寺をじっくり見て、感じていただきたいです。

東本願寺のこの御影堂(ごえいどう)と、先ほどご参拝いただいた阿弥陀堂(あみだどう)の両堂は、どちらも国の重要文化財に指定されています。
明治13年から明治28年にかけて建築されましたので、130年ほどの歴史があります。御影堂は日本最大級の木造建築といわれており、927畳の広さがあります。
みなさんが座っているこの場所には、明治時代から何百万人という人たちが、この親鸞聖人の御真影の前に座って、いろいろなことを考え、報告し、お参りをして、また地元に帰っていくということをずっと続けてこられました。ここでは、そういう息づかいを感じていただきたいです。
私も日頃こちらにいるのですが、親鸞聖人の御真影の真ん前に座って、ずっと手を合わせてじっとしていらっしゃる方が結構いらっしゃいます。何を思っていらっしゃるのだろうかと思いながら、いつも見ています。それだけこの場には、ある意味何かがあるのだなと思います。

同朋高校の建学の精神として、「同朋和敬」というものがあります。
親鸞聖人の「同朋」という言葉と、和を以て貴しとなすの聖徳太子の「和敬」の言葉の理念を、「共なるいのちを生きる」とも言い表しています。
学校の情報を見ると、こんなことが書いてありました。

他者とのかかわりの中で、あらゆる差異(ちがい)を認め合い、それぞれが輝くような豊かな関係を築く。

これが、同朋高校の理念であります。
それでは、そもそも「同朋」とはどういう意味なのでしょう?分かりますか?

最近よく使われる言葉の中に「マウントをとる」というものがあります。みなさんは使ったことがある言葉ですか?
「マウントをとる」とは、相手より優位なポジションに立つこと。自分の優位性をアピールすることで、相手を威圧したり、支配したりしようとする態度をとることだそうです。
まぁ、みんな勝ちたいし、上に行きたいし、夢を掴みたいというのが正直なところです。スポーツや勉強、クラスでの立場もそうです。
でも、そこばかりで生きているとどうなるのでしょう。

みなさんは他の人と出会った時に、特に1対1の時に、心の中で数学の“<”や“>”といった不等号を無意識のうちに付けて、「私はこの人には勝った」「この人には負けた」と考えてはいませんか?これを「比較の世界」と言います。
人間の根性の中には間違いなく「比べる」というものがあります。小さい頃からずっと比べられてきたということがあるのかもしれません。偏差値なんかその最たるものです。
比べるとは、お互いの違いを段差付けて考えます。でも、この考え方はどこかで寂しさを感じます。

九州大谷短期大学の教授であられた平野修先生という方がいらっしゃいました。平野修先生は学校の掲示板にこう書かれました。

どうして先が見えないの どうして後ろの人に気づかないの 果てしない比較という階段のようだ

比べるということは、階段を作ってしまうことです。私たちも階段を上に行きたいという気持ちがあります。
ただ、その階段というのは、上にいる人と下にいる人に出会えても、まっすぐ同じ立場の人には出会えません。それを孤独とか不安とか、そういう気持ちに感じることがあるのだと思います。
また、そういう世界から離れたいという想いも、私たちには同時にあります。
親鸞聖人の教えというのは、そこに関わってくるのかもしれません。私という人間をしっかりと見据える。私の本性をじっくりと見つめる。
そのためにここに座って、親鸞聖人の前で手を合わせているのかもしれません。

榎本栄一さんという方がいらっしゃいます。この方は念仏の教えを求める中で、いろんな詩を書かれました。
「凡夫(ぼんぶ)」という言葉を聞いたことがありますか?妬み嫉み怒りといった煩悩の心を持っている人や存在のことです。
どんなに心を静かにして、煩悩を起こさないようにしようと思っても、縁があればあれば凡夫となってしまう自分自身に出会ったときに、榎本さんはこんな詩を書かれました。

この私を凡夫(ただびと)と知るのに ながい月日かかり みれば周囲の人びと 凡夫(ただびと)のままで光っている

私が凡夫であることに気づくには、長い月日がかかる。でも、気づいてくると、周囲の人は凡夫のままでも光っている。
先ほど階段の話をしましたが、これは榎本さんが階段から離れた状態に至ったのだと思うのです。階段から離れて大地に立った。凡夫の大地というか、水平の大地に出会ったときに、周りの人々に本当の意味で出会った。光っている人として出会った。
先ほどの阿弥陀堂の真ん中に立っていらっしゃった阿弥陀如来は、後ろから48本の光を放っています。この「周りの人びと 凡夫のままで光っている」というのは、阿弥陀如来の光を受けて、自分自身でそれに応じて光っているのです。
阿弥陀経という経典の中に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光(阿弥陀如来がいらっしゃる浄土に花が咲いています。青い色の花には青い光が射して青く輝き、黄色の花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光が射しています。それぞれが光り輝いて、いずれもすばらしく美しい)」とあります。つまり、同じ光ではなく、その人その人の光を放っているのです。みんな違う光を放っているのです。同じ光の人はいません。自分の色で光っているのです。誰もが凡夫の大地で如来の光を受けて、自らが光っているのです。
その出会いが、そこでの出会いが「同朋としての出会い」なのです。
学校の理念である「他者とのかかわりの中で、あらゆる差異(ちがい)を認め合い、それぞれが輝くような豊かな関係を築く」。
それぞれが輝くような環境というのは難しいです。どちらかが輝いて、どちらかがくすんではいけません。
でも、お互いが輝けるような関係を築いていくというのが同朋高校の願いです。マウントをとってはいけません。

「いのちの持ち点」という考えがあります。
親鸞聖人は、仏教の教えを聞けばいのちの持ち点は無限大(∞)点だと言われました。持って生まれたいのちの持ち点は無限大点です。
無限大と言う数字は習いましたか?
無限大プラス100と無限大マイナス100の間にはどんな違いがあるのでしょう。無限大プラス100の方が大きいのでしょうか?
答えはイコールなのです。無限大という数字に、100を足しても、1万を足しても、1億を足しても、どんな数を足しても無限大です。一緒です。変わらないのです。
そのプラス100とかマイナス100とかというところで、私たちは一生懸命に競っているのです。
スポーツも素晴らしいと思います。勝った負けたで、泣いて笑って、悔しい思いをすることも素晴らしいと思います。
しかし、その根っこには、無限大という点数を持って生まれてきたということを忘れてはいけません。
それが、「同朋として出会う」ということなのだと思います。

みなさんが同朋高校に入学して2年が経ち、卒業まであと1年もありません。
みなさんは、人を大事にするこの高校に縁があって入学されました。
3年生は忙しいとは思いますが、仏教の教え、親鸞聖人の教えに触れる機会を持っていただければと思います。

これからのみなさんの高校生活が、素晴らしい出会いを重ね、充実した時間となりますことを念じ、今日の挨拶とさせていただきます。
今日はよく真宗本廟にご参拝いただきました。

真宗大谷派 参務  古賀 堅志