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式辞・法話

見真の日 6月の感話

2人のお年寄りが、ぼくに教えてくれたこと

おはようございます。
今日は最近ぼくが経験したことについて話したいと思います。

最初に、自分のことを「ぼく」というのが適切ではないとか、言葉使いが適切ではないと感じる方もいるかもしれませんが、自分の心を開き、自分らしく話す場としたいのでご理解ください。

最近、ぼくの奥さんのおばあちゃんが亡くなりました。それほど長い付き合いではありませんでしたが、何度かお会いしたことがある人でした。何より、ぼくの奥さんをとても大切にしてくれる人でした。お婆ちゃんのお葬式に行き、最後にありがとうを伝え、お送りしました。

お葬式も終わり、家にかえってくると、奥さんにこう言われました。
「私はお婆ちゃんにもっと会いたかった。あなたのお爺ちゃん生きているんだから、会いに行きなよ」
確かに、ぼくのお爺ちゃんは生きているのですが、ボケていて、1人では生活ができないので施設に入っています。
ぼくは以前、お爺ちゃんと一緒に暮らしていたので、その頃は毎日会っていたのですが、施設に入ってからは会いに行っていませんでした。
一緒に暮らしているとき、お爺ちゃんとぼくは価値観も違うし、生まれ育った環境も全然違うので、合わないこともたくさんありました。なんだか偉そうで、そのくせ自分では全然責任を取らないし、思い通りにいかないとめちゃくちゃ怒る、みたいな。自分勝手でわがままで無責任なお爺ちゃんを見ていると、一緒に暮らすのを苦しく感じることもありました。

そんなお爺ちゃんに最後に会ったのは数年前でした。
会いに行こうと思ったこともありましたが、「どうせ会いに行ってもボケてしまっているからぼくのことは分からない」とか、「わざわざ施設に行く時間がない」とか言っていました。

そして、先日の奥さんからの言葉を聞き、ようやくぼくはお爺ちゃんの施設に行くことを決めました。

久しぶりに会ったお爺ちゃんは寝たきりでほとんど意思疎通ができない状態になっていました。一緒に暮らしていたころとは比べようもないくらい弱っていました。食事も自分でとれないので鼻からチューブで繋がれていました。とても瘦せていて、苦しそうに息をしていました。
話しかけるとたまに目を開けますが、口をもごもごするだけで、何を言っているのかまったく分かりません。
もちろん、ぼくが誰なのか分かっていません。
お爺ちゃんが見ている施設の天井を一緒に見上げながら、しばらくそんな時間を過ごしました。
自分の家が大好きだったおじいちゃんが施設のベッドで弱っている姿は、なんだかとても不思議なものでした。

先週末、お爺ちゃんは体調を崩し、病院に運ばれました。今も病院で治療を受けています。

お爺ちゃんに会いに行って、ぼくはこれまでの自分をとても反省しました。
会いに行った方が良いなとは思いつつ、会いに行けたのに行っていなかったのです。
ボケているからとか、時間が無いというのは、全部行かない言い訳です。

人から学ぶことはたくさんあります。直接の会話ではなくても、死にゆく人や老いてゆく人の姿から学ぶことも多いのでしょう。
「大事にしたいと思っている事は、逃げずにやる。言い訳なんか探さない」
このことを今回、2人のお年寄りがぼくに教えてくれたのだと思っています。当たり前のことなのでしょうが、その当たり前のことを当たり前にやれていなかったのが自分だったんだと教えてもらえたのだと思います。

教員 T

本校は弘長2年(1262年)11月28日に入滅された宗祖親鸞聖人のご命日を縁として、毎月28日付近の1日を 「見真の日」 とし、有志生徒による勤行と学校長や教職員による法話・感話をおこなっています。
「見真」とは、大無量寿経に説かれる 「五眼讃」 の一句 「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」 を出典とし、真宗本廟(東本願寺)の御影堂正面に 「見真」の額が掲げられていること、また親鸞聖人の大師号 「見真大師」 に由来します。